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明治時代の流れ できるだけ簡潔に

☆明治時代の流れ できるだけ簡潔に

昔、学校の歴史の授業では明治~昭和の事をほとんど教えられなかったと記憶しています。
都合が悪いのかどうか知りませんが、教科書ページの後半が、スーパースピードで過ぎ去って行ったような。

私が聞いていなかったかも知れませんが。

そこで、簡潔に起こったとされている事を調べてまとめてみたいと思いました。
ただ、テストの為に勉強するわけでもありませんから、あまり人の名前は出さないようにしたいと思います。

歴史の授業で人の名前を覚えないといけないというのが
大嫌いでした。
その人がいたから、歴史は、こうなのかも知れませんが、
それより流れを知る方が大事だと私は思います。

あんまり詳しく書いても、わかりにくいと思い、
出来るだけ簡略化しています。
それでも長いですが。

間違った記述もあるかも知れませんが、気が付いたら直して行きます。
ただ、歴史には様々な説があります。





・明治初期


少し、慶応の最後から。

この頃、アジアで独立国だったのは、日本・清(中国)・朝鮮・タイだけ。
この頃、日本は大小260の藩に分かれていて、それぞれに政府のようなものがあった。
それをこれまでにまとめていたのは、江戸幕府。
それを倒そうとしていたのが薩摩藩と長州藩。

1866年12月25日
 孝明天皇が天然痘(他殺説あり)で急死。

1867年1月3日(諸説あり)
 徳川幕府の廃止が宣言。

1867年11月9日(10月14日?)
 徳川幕府から明治天皇に政権返上。「大政奉還」。(開始時期は明確には言えない)。
 徳川幕府が実権を保つ為に、天皇に政権を返した。
 まだ徳川には大きな力が残っていた。

1867年12月9日
 天皇は、これまでの将軍、摂政、関白の3職をなくし、総裁、議定、参与とした。「王政復古の号令」。
 そのメンバーに将軍だった徳川の名がなかった。徳川の領地も返せとなった。

1868年1月9日(?)
 14歳の明治天皇が即位。

↑ ここまで慶応。
↓ ここから明治。

1868年1月25日
 日本の元号は、慶応から明治に変わった。
1868年
 薩摩藩と長州藩の連合軍と徳川軍が戦い、徳川軍が敗れ降伏。「鳥羽・伏見の戦い」。
1868年4月11日
 江戸城が明け渡せられた。
 この後、しばらく徳川軍との内乱が続く。「戊辰戦争」。

1868年9月
 江戸が東京に改称した。(この頃は東京府)。
1868年10月23日
 明治新政府が、改革の開始。「明治維新」。(開始時期は明確には言えない)。

明治政府の目的は、
・日本を欧米(ヨーロッパとアメリカ州の3大陸)のような文明国にする。
 これまでに欧米との間に結ばされた不平等な条約(日米修好通商条約など)を改正したい為。
 日米修好通商条約:アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかった。
・日本をひとつにまとめる。
・国を豊かにして、強い軍隊を持つ。「富国強兵」。
など。

政府のメンバーは、薩摩・長州・土佐・肥前の藩の出身者が要職を独占。

1869年5月
 元徳川幕府との内乱が終結。元徳川幕府の勢力が滅ぶ。

1869年
 政府は、新たな身分制度を作った。
 旧大名、公家を華族。
 旧武士を、士族。
 旧農民や商人や職人を、平民。

 これによって、
 身分に関係なく結婚可能。
 職業を選択の自由。
 旅行の自由。
 士族が刀を捨てる自由。
 平民は、名字を名乗れるようになった。
 など。

 ただ、これはすべての国民が平等という意味ではないので注意。

 牛肉を食べる事が広まったのもこの頃。

1869年7月25日
 政府は、大名(藩)から、土地と人間を、天皇に返還させた。「版籍奉還」。
 人間も物と同じに返還なんですね。
 武士や士族の給料を政府が払う事になった。「秩禄(ちつろく)」。
 この秩禄が、政府の収入の5/4もあり、政府が使えるお金が少なかった。

1869年
 政府は、来るべきロシアとの戦争に備えて、北海道の開拓を進める。
 北海道には、この頃、アイヌ人が暮らしていた。
 日本は、北海道とアイヌ人を勝手に日本人にして、文化も言葉も奪った。

1870年
 日刊の新聞が誕生。
 1番目は、「横浜毎日新聞」。

1871年
 政府はお金の単位を変えた。「新貨条例」。
 両・文から、円・銭・厘。
 この後、民間が法に基づいて経営する銀行が出来るようになる。「国法銀行」。

1871年1月24日
 郵便制度が確立。

1871年8月29日
 政府は、藩を廃止。府と県にする。3府72県。
 大名を東京に移住させ、県は、政府の役人が治める。「廃藩置県」。

1871年(1869年?)
 電信柱が建てられ「電信」が始まる。(電信=文字を信号に変えて送る)

1871年11月
 明治政府のトップの多くが、アメリカとヨーロッパに、条約の改正と文化の見学を目的に出発。「岩倉施設団」。
 1873年9月13日まで。トップの多くが長期間、日本を離れた事になる。
 条約の改正は、無理だった。

1872年
 沖縄は、この頃、琉球王国という王制の国だった。
 日本政府は、軍隊を送って占領し、沖縄県とした。
 日本は、琉球王国と琉球王国に住む人を勝手に日本人にして、国を奪った。

1872年
 鉄道が開通。(新橋-横浜間)。機関車。これは、イギリスの技術。

1872年9月4日
 全国を学区に分け、それぞれに大学校、中学校、小学校を設置する計画を発動。「学制」。
 授業料がいる。

1872年
 本の「学問のすゝめ」がベストセラーに。「福沢諭吉」。

1873年1月1日
 太陰暦から太陽暦を採用。
 太陰暦=新月から次の新月が1か月とした暦。
 太陽暦=地球が太陽を1周するのを1年とした暦。
 1872年12月2日の次の日が、1873年1月1日。1か月ほど飛んだ。「旧暦から新暦」。

1873年
 政府はお金がないので、これまでは幕府や大名のものだった土地を、
 人々が土地を所有出来るようにした。「地租改正」。
 地租=税金の1つの名前。
 でも、その代わり、土地に合わせて、地租という高い税金を取るようにした。

1873年9月13日頃
 アメリカとヨーロッパを見学していた、岩倉施設団が戻って来た。
 この頃、政府は、植民地を作って原料を安く手に入れ、国を栄させたいと考えたのか、
 「帝国主義」の世界を見て、日本の独立が危ういと思ったのか、
 政府への不満(内乱の危険)をごまかす為か、
 朝鮮に軍隊を送ろうと考える者が出たり、政府内の賛否でもめる。「明治六年政変」。
 陸軍大将・近衛都督が、朝鮮に話し合いに行こうとしたが、反対され、辞表を提出。「辞めた陸軍大将・近衛都督=西郷隆盛」。
 他にも政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。

 帝国主義:軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略する思想や政策。

1873年
 国民の兵役義務の法令、徴兵令が定められた。
 徴兵=国が国民を徴集して一定期間兵役に就かせること。
 満20歳になった男が対象。
 家を継ぐ長男や、税金を多く納めた金持ちは、徴兵から外される。
 そういうわけで、金持ちは自分は戦争に行かなくて良いので、戦争を賛美する風潮になりやすくなる。

1874年頃から
 現政権に対しての社会運動が行われるようになる。「自由民権運動」。
 憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、
 言論の自由や集会の自由の保障などの要求。
 政府は、弾圧。

1875年
 明治時代の日本に西洋の文明が入って来た事を、「文明開化」と呼ぶようになった。

1875年
 政府は、新聞紙条例を出す。
 政府に批判的な記事を書いたら取り締られる。

1876年
 秩禄の廃止。
 秩禄=武士や士族の給料を政府が払う事。
 これから武士や士族は、自分で稼ぐ事に。

1876年
 法律で、刀は、警察と軍隊以外、持ってはいけなくなった。「廃刀令」。

1877年
 政府に不満を持つ1万3000人の士族が、政府を倒す為に、鹿児島を出発。
 盟主は、1873年に陸軍大将・近衛都督を辞めた人。西郷隆盛。
 各地で他の士族も加わり、4万人規模に。
 九州で、政府軍(徴兵平民の軍隊) 対 士族軍の日本の内乱が起こる。「西南の役(西南戦争)」。
 新型武器を持った平民の軍隊が、士族軍を倒す。
 9月、盟主も死亡。

・明治10年目以降


1878年5月14日
 政府の内務卿(内務大臣)が、士族に暗殺される。「紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)」。

1880年
 政府は、現政権に対しての社会運動の弾圧に為に、集会・結社の自由を規制した法律を出す。「集会条例」。

1882年
 中央銀行である日本銀行が開設。紙幣の発行は、日本銀行のみが行うようになる。

1885年12月22日
 内閣制度創設。大臣や初の内閣総理大臣。
 内閣総理大臣は、維新志士・長州出身で、英語が堪能な人がなった。「伊藤博文」。

1885年
 日本と清の間に、朝鮮へ、一方の国だけが軍を入れてはいけないという条約を結ぶ。「天津条約」。

1886年10月
 横浜から神戸に向けて出発したイギリスの貨物船が、暴風で沈没。「ノルマントン号事件」
 日本人乗客は全員死亡したが、外国人乗組員は脱出。
 亡くなった日本人乗客への賠償はなかった。
 イギリスとの不平等条約があったので、日本は調査が出来なかった。

・明治20年目以降


1888年4月30日
 第1代内閣総理大臣は、憲法草案に専念する為に、総理の座を退き、
 第2代内閣総理大臣は、維新志士・薩摩藩出身で酒癖が悪かった人になった。「黒田 清隆」。

1889年2月11日
 ドイツ憲法を手本に、天皇が、大日本帝国憲法制定し、国民に。
 天皇が元首と規定。
 天皇は、国会に相談なしでも、外国との条約、戦争を開始できるとされる。

1889年10月24日・25日
 第2代内閣総理大臣が、条約改正が上手くいかなかったのか、総理の座を退き、
 第3代内閣総理大臣は、維新志士出身の人がなった。「山県 有朋」。

1890年
 国会を開く。
 議会は、衆議院と貴族院の2院制。
 投票権は、たくさん税金を納めている25歳以上の男だけ。(全体の1.1%)。

1890年7月
 第1回衆議院選挙。

1891年5月6日
 第3代内閣総理大臣が、議会運営に嫌気がさし、政権を放り投げた。
 第4代内閣総理大臣は、維新志士・薩摩藩出身の人がなった。「松方 正義」。

1891年5月11日
 日本を訪問中のロシア帝国の皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、
 滋賀郡大津町(現大津市)で、警備にあたっていた
 日本人の警察官の1人に斬りつけられ負傷る暗殺未遂事件が発生。「大津事件」。

1891年12月25日
 足尾銅山の鉱毒による公害事件が、国会に取り上げられる。「足尾鉱毒問題」。
 開発による有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらした。

1892年8月8日
 第4代内閣総理大臣が、予期せぬ事件や、閣僚の暴走で、総理の座を退き、
 第5代内閣総理大臣は、第1代内閣総理大臣だった人に戻った。「伊藤 博文」。

1894年
 イギリスとの不平等な条約の領事裁判権が撤廃。
 領事裁判権の撤廃:外国人が日本で犯した犯罪を日本の法律で裁ける。

1894年7月25日から、
 朝鮮で、日本 対 清(中国)との戦争。「日清戦争」。
 この頃、日本は、ロシアの力が自国に及ばないようにする為に、
 (朝鮮がロシアに植民地化されると、朝鮮から日本はすぐそこ。)
 朝鮮半島への進出を考えていました。
 朝鮮の政府は、清に頼っていましたが、農民は清を含む外国の支配に反対する反乱を起こしました。
 朝鮮は、清に軍を送って貰いました。
 天津条約で、一方の国だけが軍を入れてはいけないという条約を、清が破ったので、
 朝鮮を巡って、日本が出兵し、戦争を起こしました。
 実質は、日本と清の朝鮮の支配権の争いです。

1895年3月
 朝鮮で日本が清に勝利。「日清戦争」の終わり。
 日本側の死者、約1万3800人。清側の死者、約3万5000人。
 結果、講和条約を結ぶ。「下関条約」。
 ① 清は、朝鮮を独立国と認める
 ② 台湾、遼東半島などを日本の領土とする
 ➂ 清は、日本に賠償金を払う(当時の国家予算の3年分)
 など。

1895年4月23日
 朝鮮を侵略したかったロシアは、下関条約が都合に悪いので、フランス、ドイツと組んで、
 日本に対して、清に遼東半島返せと勧告。「三国干渉」。

1895年4月29日
 結局、ロシアに勝てないと考えた日本は、遼東半島を返す。

・明治30年目以降


1896年
 日本に活動写真が輸入され人気に。

1896年8月31日
 第5代内閣総理大臣が、総理の座を退いた。

1896年9月18日
 第6代内閣総理大臣は、第4代内閣総理大臣だった人に戻った。「松方 正義」。

1898年1月12日
 第6代内閣総理大臣が、内閣不信任案の可決が現実視された事もあり、総理の座を退いた。
 第7代内閣総理大臣は、第1代・第5代の内閣総理大臣だった人に戻った。「伊藤 博文」。 

1898年6月30日
 第7代内閣総理大臣が、政権維持は不可能と考え、総理の座を退いた。
 第8代内閣総理大臣は、維新志士出身で、薩長出身でない人になった。「大隈 重信」。 

1898年11月8日
 第8代内閣総理大臣が、わずか4か月で、政権維持は不可能と考え、総理の座を退いた。
 第9代内閣総理大臣は、第3代の内閣総理大臣だった人に戻って。「山県 有朋」。 

1900年6月から、
 清では、このままでは植民地にされると考えた
 清の秘密結社である義和団が、生活に苦しむ農民を集めて
 北京にあった外国公使館などを攻撃した。
 それに、当初鎮圧していた清も協力して、欧米に宣戦布告した。「義和団事件」。
 日本、イギリス、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリアの8ヶ国連合軍が
 清に軍隊を送って、北京などを占領。清と義和団は敗れ、8ヶ国連合軍の勝利。

1900年10月19日
 第9代内閣総理大臣が、総理の座を退いた。
 第10代内閣総理大臣は、第1代・第5代・第7代の内閣総理大臣だった人に戻った。「伊藤 博文」。 

1901年
 日清戦争の賠償金で、官営製鉄所(今の八幡製鐵所)を作る。

1901年5月10日
 第10代内閣総理大臣が、総理の座を退いた。
 第11代内閣総理大臣は、陸軍出身の人がなった。「桂 太郎」。 

1901年9月7日
 義和団事件の終了で、講和の最終議定書(条約)が出された。「北京議定書」
 ① 清は巨額の賠償金の支払うこと
 ② 北京公使館地区への外国軍の駐留などを認めること
 など。
 しかし、各国軍が撤兵した後もロシアは軍隊を引き揚げず、満州を占領したままとなった。

1902年
 日本とイギリスが同盟を結ぶ。「日英同盟」。
 日本の思惑「イギリスは世界一の大国だから、味方にしたい。ロシアが危険。三国干渉へのロシアへの恨み」
 イギリスの思惑「イギリスは清に強い権益があるが、ロシアも狙っているので日本と組もう」

1904年2月から、
 日本は、満州を占領しているロシアに、満州をあげる代わりに、
 韓国の支配は日本と認めろというが、決裂。
 ロシアはまだまだ南下して、日本に来そう。
 日本は、ロシア艦隊を攻撃。ロシアとの戦争が始まる。「日露戦争」。
 戦地は、朝鮮半島、遼東半島など。

1905年5月
 日本は、長崎県の沖で、ロシアの艦隊を破った。

1905年9月
 日露戦争終了。日本の勝利。
 日本側の死者、約11万5600人。ロシア側の死者、約4万2600人。

1905年9月4日
 日本とロシアの講和条約を、アメリカで調印。「ポーツマス条約」。
 ① 日本が樺太の南半分を貰う
 ② 日本が大韓帝国の指導権を貰う
 (結局:外交と内政の権限を奪い。皇帝を思い通りに動かして、反対者を軍隊で押さえつける)
 など。
 だが、賠償金支払い義務はないとされた。

1905年9月5日
 戦争で多くが戦死した、ポーツマス条約で賠償金が得られなかった事に
 反対する国民集会をきっかけに、民衆の暴動が発生。「日比谷騒動」。
 東京は無政府状態。
 翌日、政府は軍隊で鎮圧。

1906年1月7日
 第11代内閣総理大臣が、日比谷騒動の影響もあり、総理の座を退いた。
 第12代内閣総理大臣は、公家出身の人がなった。「西園寺 公望」。 

1908年7月14日
 第12代内閣総理大臣が、健康悪化か、元老の圧力で、総理の座を退いた。
 第13代内閣総理大臣は、第11代内閣総理大臣に戻った。「桂 太郎」。 

1909年10月26日
 内閣総理大臣が、ロシアに行く途中、満州の駅で、大韓帝国の民族運動家に暗殺される。
 日本とロシアの講和条約で、日本が大韓帝国の指導を奪った事で恨まれた。

1910年
 軍隊を派遣。大韓帝国が日本の統治下に入る条約を締結。日本が、韓国を併合し植民地とする。

1911年
 不平等な条約だった関税自主権を回復する。

1911年8月30日
 第13代内閣総理大臣が、総理の座を退いた。
 第14代内閣総理大臣は、第12代内閣総理大臣に戻った。「西園寺 公望」。 

1912年
 明治天皇が崩御。明治が終わる。

・感想など


明治は、経済や文化は発展しましたが、今の基準で考えた場合、世界の大国と日本が悪い事もしている時期でした。
鎖国していた江戸時代より、他国に恨まれる理由や、うまく行かない理由が特に出て来た時期かと思います。

防衛戦争とは言い切れない侵略戦争とも考えられる面が多々あると思います。
これだけの死者と不幸になる人を出して、進んだ道が正しかったのか?
本当に、そうせざるをえなかったのか?
一番悪いのは誰だったのか?
一番得をしたのは誰だったのか?

考えてみたいと思います。


そして、こういう流れがあって、大正・昭和を経て、現在に繋がって行きます。

今度は、大正の流れも書いてみたと思います。






記載:2016年08月頃
追記:2016年09月頃

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